2022年2月上旬、初めての一人旅。
電車に揺られて約1時間、「上諏訪駅」に到着。
そこから約15分掛けて歩くと・・・。

高島城に着きました!
2月上旬というのもあってか、堀の水が凍ってました。
簡単な歴史解説
中世(最初期の高島城)
この地域を治めていた諏訪氏が茶臼山に城を築きました。
茶臼山に築いた城を「高島城」と呼んでおり、当初は現在の位置にはありませんでした。
また、この高島城は、別名「茶臼山城」とも呼ばれていました。
戦国時代(甲斐武田氏による支配)
戦国時代に入ると諏訪氏は滅亡し、代わりに甲斐武田氏が治めることになりました。
最初は、諏訪郡の郡代として板垣信方が上原城に配属されましたが、1548年に
上田原の戦いにて板垣信方は戦死してしまいます。
翌年の1549年に長坂虎房が城代として高島城に入城します。
その際、山本勘助によって改修され、その後も城代が変わっていきますが、
甲斐武田氏による諏訪郡支配の拠点となります。
安土桃山時代(現在の高島城の築城)
1582年の織田氏の甲州征伐によって甲斐武田氏が滅亡します。
その際、甲斐国と信濃諏訪郡は織田氏家臣の河尻秀隆が領しましたが、
同年に起きた本能寺の変による天正壬午の乱により諏訪頼忠が治めることになります。
その際、平城として金子城を築城し拠点としますが、転封となり代わりに
日根野高吉が茶臼山城の入城しました。
その後、1592年~1598年にかけて、現在の位置に高島城を築城しました。
当時は、諏訪湖の湖上に築城されたので「諏訪の浮城」と呼ばれていました。
(その為、現在では「日本三大湖城」に数えられています。)
その後、1601年に転封になるまで、日根野氏が治めることになります。
江戸時代
日根野氏が転封となった後、代わりに諏訪頼水が入封します。
そして、再び諏訪氏が藩主となり明治維新まで治め続けます。
1626年に徳川家康の六男である松平忠輝を預かることになり、
その際に南の丸を増設し監禁場所となりました。
以後、南の丸は流人の監禁場所として使用され、不要になった後は薬草などの栽培場所になりました。
また、江戸時代初期に諏訪湖の干拓が行われ、この時に水城としての面影がなくなり、
1786年には石垣などの改修も行われています。
明治時代~現代まで
1871年の廃藩置県の際は高島県となり、県庁舎として利用されます。
ですが、1875年になると天守閣などの大部分の建造物は破却もしくは移築されてしまい、
石垣と堀のみとなりました。
1876年には高島公園として開放され1900年に諏訪護国神社が建てられます。
その後、1970年に本丸跡に天守・櫓・門・塀が復元され現在に至ります。
(なお、二の丸と三の丸は住宅地となっています。)
他の写真

「冠木橋」と「冠木門」です。復元ではありますが、立派です。
門をくぐると、「本丸跡」に行くことができます。

門をくぐった先にある「本丸跡」です。現在は、高島公園となっています。
曇ってたのもあってか、あまり人が居ませんでした。

「本丸跡」にある「諏訪護国神社」です。写真はありませんが、
近くには「西多門跡」と「土戸門跡」があります。

「本丸跡」から見た「小天守」です。ちょうど晴れてきましたので、綺麗に撮ることが出来ました。

「小天守」の近くまで行って撮影しました。コンクリートで復元されています。
中は資料館となっており、高島城の歴史を知ることが出来ます。

「小天守」から見た諏訪湖の景色です。諏訪湖までは、距離があります。
前述にも記載しましたが、江戸時代にはすでに埋め立てられており、
「二の丸」と「三の丸」に至っては住宅地となっています。
スタンプ設置場所と御城印販売場所
スタンプ設置場所:高島城天守閣(小天守) ※押す際、入館料が必要となります。
御城印販売場所:高島城天守閣(小天守) ※受付にて購入出来ます。
アクセス
交通機関:1.東京駅から上諏訪駅まで、「在来線」と「特急列車」で約2時間30分
2.上諏訪駅から現地まで、「徒歩」で約15分
終わりに
あれから、約3年ほど経ちました。
初めて行ったというのもあってか、写真が少ないですね。
しかも、天候が悪い時に行ったので綺麗に撮れてない写真が多かったです。
また、「小天守」の展望では、諏訪湖の反対側には富士山を見ることが出来ます。
ですが、運が悪いことに曇っていたので見えませんでした・・・。
どこかのタイミングで再度行こうと思います。
その時は、必ず快晴の時に行って富士山を見ようと思います。
・・・さて、今日はここまで。次回も、お楽しみに!
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